四日市臨港の鉄路
名古屋と並び、四日市も比較的臨港の鉄路が現役で残っている、国内では稀有な都市。
今まで撮りためて来た物の内、公開中の作品を集め並べてみました。
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重要文化財 末広橋梁 《平成28年1月中旬》 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
国内に唯一残った現役の開閉式鉄道橋。
昭和六年竣工。
鉄道全盛時代の貴重な遺産は、末永い活躍を誰もが願う、国の重要文化財。 |
参考画像は昭和五十年。
臨港の鉄道が最後の輝きを見せた時代。
埠頭に面した倉庫群に横付けされた有蓋貨車。
縦横無尽に張り巡らされた鉄路が確認出来ます。
当時は平面交差も極当たり前の風景だった様です。 関西本線との分岐付近に、四日市港線用の転車台があった事を初めて知りました。 蒸気時代の名残でしょうか。 又、天白川対岸(塩浜地区)にも、今では跡形もない引込線があった事が確認出来ます。 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
絶滅危惧風景 《平成30年8月下旬》 |
古くからの四日市の臨海地区への貨物輸送路。
かつては縦横無尽に引かれていた引込線は今やほぼ一本道。
太平洋セメントの工場間輸送(東藤原〜四日市港)の為だけに残っているのが現状。 |
参考画像は昭和二十三年。
前項と地域が重複するので違う時代の画像を選びました。 今では完全市街地になっている内陸部も、当時は一面の水田。 全国的に見られるこの変化は、人口の増加と言うよりも、核家族化による家屋の無秩序な乱立が主要因。 残念ながら景観の観点では、我が国をその後の僅か半世紀で醜く激変させてしまいました。 甚大な空襲被害を被った塩浜の海軍工廠跡地。 後に四大公害病として悪名高い“四日市ぜんそく”を引き起こす事になる工業埋立地も、まだまだ復興さえおぼつかない様子。 戦後すぐのこの時期までは、近鉄が国鉄駅前に寄り道する様に蛇行を繰り返して走っていた事がはっきりと確認出来ます。 海山道方面では新線の工事も始まっていて、最南端は既に新たな路盤に切り替わっているのが読み取れます。 |
保線員 《平成28年1月中旬》 |
古典的機械仕掛けの遮断機 《平成28年1月中旬》 |
戦後も拡張が続いた四日市の新たな臨海地区、塩浜への貨物輸送路、通称“塩浜線”。
つい一昔前までは三菱化学や石原産業への引込線も現役だったけれど、今や昭和四日市石油への専用線的存在。
但し、貨物線として生き永らえるだけの輸送量(信州向けの石油製品)は何とか維持している模様。 |
参考画像は共に昭和五十年。
一枚目では、今では駐車場や道路になってしまっている、画像中央に伸びる鉄路が目を引きます。
前項の戦後すぐは寒村だった海山道地区は、工場の集積によって塩浜地区と一体化し“街”へと成長中。 二枚目は沖合の埋め立て地区。 今や路盤もほとんど現存しない石原産業への鉄路。 地形図には今以ってその存在を留める、現役最盛期の線形が確認出来ます。 ちなみにこの付近、埋め立て前は鈴鹿川の流れと伊勢湾岸流が作り出す、自然の砂州(砂嘴)が形成される干潟だった様です。 |